2014年2月7日金曜日

その街のこども(2010年)



その街のこども』(2010年)

2010年1月17日にNHKで阪神・淡路大震災15年特集ドラマとして放送し、大きな反響があったことから劇場版として再編集され公開された。
監督・井上剛、脚本・渡辺あや、音楽・大友良英。実際に阪神・淡路大震災を被災した森山未來、佐藤江梨子が主演。


阪神・淡路大震災から15年後の「追悼のつどい」の前日、すっかり変わった神戸の街で、ふとしたきっかけで出逢った男女が出会い、15年目のその時までの時間を共に過ごすことになる。今は東京に暮らすふたりが10数年ぶりにかつて暮らしていた場所、かつて震災によって破壊された場所、それぞれの過去がある場所を経由しながら、その朝を迎える。


カメラの動きや、ポツポツと語られえるセリフ、挿入される当時の写真や映像。ドキュメンタリーのような映画でした。言葉少なに語られる言葉、決して相手に分かってもらおうという言葉ではなく、自分のための言葉のように響いてきました。過去と折り合いをつけるというきっぱりとしたものではないし、何かが解決するようなものではなく、その土地を歩き、同じ瞬間を経験した相手といることで、15年間ふたをしてきた思いに気付いていく。そもそも、折り合いがつくことでも、解決することでもないのだから。

本当はこわい。でも行かなあかん。そう、何度も言う美夏(佐藤江梨子)が当時の親友の父親と再会したとき、それは「生かなあかん。」に聞こえてきた。

しかし、そういった説明はもちろんないし、ふたりの言葉の多くも当時のことばかりで、今ふたりが思っていることは語られることはない。情景描写やただ事実を写しだした映像を見て、ふたりの気持ちを知っていくことになる。
この井上監督は、『あまちゃん』のチーフプロデューサであり、『あまちゃん』の中のもっとも重要な震災の週(第23週)を担当した方。『その街のこども』を見て、井上監督だから、あの週の『あまちゃん』ができたんだと思いました。震災が起きた日を描いた133話は、当時の映像を一切使わず、それでも当時の状況をありありと伝える秀逸な演出でした。その後の回も、『その街のこども』同様、状況をたんたんと描写することで、観る人たちそれぞれが当時の自分を思い出させ、そこに何かを感じるようなものでした。

『その街のこども』を観てももやはり阪神・淡路大震災当時10歳の私でも思い出すものがありました。(当時10歳ってことは、森山君演じる中田勇治と同い年か)井上監督は観る人の感情を引き出すことで、物語の奥を作り出すのが素晴らしくうまいです。



そういうえば何かで、「震災を風化させてはいけない!という人たちは、そうしなければ簡単に忘れられる人たち。被災者は忘れたくても忘れられない。」という記事を読んだ。
このふたりを観ていると、「忘れよう、思い出さないようにしよう。そして、そう思っている自分も気づかないようにしよう。」という気持ちが出ているように感じました。しかし、前述の言葉のように、決して忘れたくても、忘れたふりをしていても、忘れられないということも。

15年たって、変わった街があって、変わった気持ちもあるけど、変わらないものもある。15年たったから変われたことも。「追悼のつどい」の広場の前、「行かへんの?」の美夏の言葉に、「やめとく。また来年。」と答えた勇治。それは向き合うことから逃げたわけじゃなくて、今年はここまでこれた。もう一歩先に行くのは来年。という、ものすごく前向きで未来があるからこその希望の言葉に聞こえました。

15年後の勇治が一歩進めたように、未来を見れるように、東北の15年後を考えずにはいられませんでした。

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