2013年12月31日火曜日

ハルフウェイ(2009年)


ハルフウェイ

北川悦吏子映画初監督作品。岩井俊二と小林武史がプロデュースしている。北乃きい・岡田将生主演の日本映画。
キャッチフレーズは「だけど、それは まだ 物語の途中…」。

ヒロは、あることをきっかけに、片思いしていたシュウから告白され付き合うことになる。
高校3年生。進路、受験、卒業、そして二人の恋。

リアルな高校生の日常を切り取ったような映画(こんな、高校生活ではなかったけど…)。
会話が自然だな〜と、思ったらほとんどアドリブ&岩井俊二プロデュースで納得。
花とアリスが好きなので、なんとなく似ている雰囲気だと思ったので。

ストーリーは特にあるわけじゃないんだけど、誰もが通ったことのあるような、あるいは憧れていたような高校生活なので、共感したり、きゅんきゅんできるのではないだろうか。
リアルな会話を丁寧に撮っているから、特にこれといったエピソードがなくてもなかなか楽しめる。

また、タイトルのハルフウェイは「half way=途中」(北乃きいが読み間違えたのを採用されたらしい)を意味しているんだけど、ラストのプツッという終わり方は、まさにそういう感じだった。
高校時代の恋なんて、どうなるか分からない。それでも、その恋がその時のすべてで。
その後、二人はどうなるのか分からないけど、「だけど、それは まだ 物語の途中…」なので。

ゆったりしているので、期待しすぎずポケーと見るといいと思います。




2013年12月28日土曜日

ピンポン(2002年)


ピンポン
松本大洋の同名漫画を原作とする日本映画。
監督・曽利文彦、脚本・宮藤官九郎、出演・窪塚洋介、ARATA、中村獅童など。

上映当時「この星の一等賞になりたいのっ!俺はっ!そんだけっ!」とか、「I can fly!」とか、よく言ってたな〜と懐かしい気分なりつつ。当時、高校生だったのかな?

今だから分かるのは、才能とか努力とか、楽しみと苦しみとか、自分の限界とか…
結構、キャラクターそれぞれの葛藤が分かりやすく、そしてリアルだった。

卓球が好きで楽しくて、天性のセンスと勝てる自信はあるけど、努力はしないペコ。
才能もあるし、努力もできるけど、ペコがいる卓球が好きなスマイル。
努力努力努力の人。勝ち続ける以外に道はないドラゴン。
努力をして、その結果、自分の限界を知ってしまったアクマ。


「ヒーローっていると思う?」と、スマイルは問う。

勝ち続け、負けを知らず、最強のヒーローはこの映画には出てこない。
スマイルにとって、ペコが絶対的なヒーローで、負けるところが見たくなくて、手を抜くことさえする。なんという、不器用なあこがれ。
そんなスマイルにとってのヒーロー=ペコは、ドラゴンとの闘いのさなか、ヒーローに助けを求め、そのとき答えるヒーローはスマイルだった。
それはスマイルがいるからこそ、ペコはヒーローとしていることができるということなのだろう。

スマイルを笑わせ、ドラゴンに楽しい卓球を教え、アクマを泣かせる。
負けては泣き、弱さを知り逃げ出す。でも、やっぱりペコが最強のヒーロー。

キサラギ(2007年)


キサラギ

ストーリーの大部分が一つの部屋の中で進行する密室推理劇。
脚本は古沢良太によるオリジナル。監督は佐藤祐市。
小栗旬、ユースケ・サンタマリア、小出恵介、塚地武雅、香川照之が出演。


友達に「なんかおもしろい映画ない?」と聞かれたら、まず勧めるのがこの映画。
なので、すでに5回くらいは観ていると思う。推理ものにもかかわらず。

1年前に謎の自殺を遂げた、如月ミキの1周忌オフ会に集まったファン5人(ほぼ5人だけで話は進む)。

「なぜ、彼女は自殺をしたのか?」

という、ひとつの謎についてひたすら議論していくのだけど、そのやり取り、展開、伏線の回収、ラストのオチ全てがおもしろい。間違いないエンターテイメント。

その5人はネット掲示板を通じて知り合っているので、ハンドルネーム以外の素性はお互い知らないわけだから、その素性が明らかになるに伴い、議論の的も変わっていく。疑ったり、疑われたりを5人で延々と繰り返すんだけど、飽きさせない会話劇!
脚本は『リーガル・ハイ』の古沢さんということで、それも納得です。

ラストのオチも秀逸。
真実は誰にも分からない。けれど、彼ら5人にとって「如月ミキ=アイドル」であることは揺るぎない真実で、如月ミキはアイドルのまま死んでしまったということは間違いないのだろう。
5人と如月ミキの関係がそれぞれ違うけど、それぞれにとってのアイドルだったんだな〜と、最後は実は結構泣けたりする映画です。

そして、この映画を観たら、ぜひエンドロールも観て欲しい!このエンドロールがまた素晴らしく痛快なの。実は観る度に、エンドロールだけ巻き戻して2回観たりするくらい好きです。



AKIRA(1988年)



AKIRA

大友克洋による同名漫画を原作とする、アニメーション映画。
脚本・監督も大友克洋が務める。

爆音大友克洋』というイベントで鑑賞。
伝説的アニメと知っていながら、なかなか鑑賞できずにいたのだが、爆音で初めて観たのがよかったのか、どうか…。

爆音映画祭音楽ライヴ用の音響セッティングを使い、大音響の中で映画を視聴出来るイベント。
単に音を大きくするのではなく、その映画にとって最適な音とは何か、それぞれの映画における音の核心はどこにあるのかを追求している。

そんなわけでものすごく恵まれた環境での『AKIRA』という映画体験をしてしまいました。
そして、この映画が四半世紀たった今も、こうして見られ続ける意味をビシビシと感じざるを得ない2時間だった。

むしろ、今こそ観るべき映画!
舞台は2019年。翌年にオリンピックを控えた東京。その裏で政府がひた隠しにする、最高機密=アキラ。
オリンピック招致のお祭り騒ぎの裏で、人間の手に負えない力がまだ確実に日本を覆っているわけで…現実の日本が25年前にすでに描かれていた。
人類の手に負えない力、最高機密、隠されている真実…どうしても「原発」を想像してしまうのは私だけではないはずだ。

そんな理不尽な圧倒的な力の前にしても、ただ親友の鉄男だけを見ている金田はヒーローの理想だと思う。そして金田が無邪気に、まっすぐにそうしているからこそ、鉄男の感じていた行き先のない劣等感もまた、リアルで切実なものとなる。
それでも、そんな劣等感を抱えながらも最後の光に包まれるシーンでの行動が救いとなる。金田の行動は否定されることがなくてよかったと心底思った。鉄男の劣等感で金田が失われることがあれば、その劣等感はより救いがなくなってしまうだろうから。

あこがれの人はあこがれのままでいて欲しい。超えたいけど。超えようとするけど。
鉄男にとっても、金田は最後までかっこ良かったはずだ。


ストーリーも25年前とは思えないけど、アニメーションも表現も到底そう思えないクオリティだった。
最後のアキラの暴走(?)の描写なんて、確実にエヴァンゲリオンに受け継がれてるよね。エヴァに関して言えば、人類が神の領域に踏み入るようなテーマとか、根底がそもそも同じだし、影響を受けているのは間違いなさそう。


爆音についても少し。
今回の『爆音大友克洋』で『AKIRA』は35mmフィルム版とデジタルリマスター版が上映され、デジタル5.1チャンネルを駆使したデジタルリマスター版で鑑賞。

なんと言うか、もう…包まれている感じだった。

冒頭のバイクでの暴走のシーンから、会場がビリビリ震えていて、何が起きているのか分からなかった。ラストの鉄男が暴走して、アキラが覚醒するところでは、自分もアキラに飲み込まれているような錯覚に陥った。なんと言うか…包まれているという表現しかできないのだけど。前にちょっとサラウンドシステムの体験をしたことがあって、そのときは数分の体験だったんだけど、映画というある程度の時間(今回は2時間)をその中で過ごすと、耳がおかしくなってくる。それは、聞こえにくいとか不調という意味ではなくて、目はスクリーンを通して映画を観ているんだけど、耳に関しては客観性がなくなるというか、映画の中にいるような感じになってくる。

そして、吉祥寺バウスシアターの天井は、鉄骨とかはしごのようなものがむき出しで、それもまた『AKIRA』を観る環境としては、しっくりくる感じがした。はしごとか照明が、その音で震えている感じとかも含めて。

今回、爆音という特殊な環境で『AKIRA』を観れたことで、またひとつ貴重な映画体験ができた。そして、今まで観ずにきたこの映画と、今この時代に初めて対面したことも。

2013年12月13日金曜日

鍵泥棒のメソッド(2012年)


鍵泥棒のメソッド

内田けんじ監督。
2013年、第86回キネマ旬報ベスト・テンで日本映画脚本賞、芸術選奨文部科学大臣賞、第36回日本アカデミー賞・最優秀脚本賞を受賞。
堺雅人、香川照之、広末涼子が出演。


内田けんじ監督おなじみの、ドタバタ劇。
そして、パズルのように組立てられた展開は、最後まで騙され続けてしまう。これも内田けんじ監督の得意技。

おもしろいです。まじで。
売れない貧乏役者の桜井武史(堺雅人)が、銭湯で転倒し記憶をなくした山崎信一郎(香川照之)のロッカーのカギを盗み、自分のカギと入れ替える。山崎のふりをする桜井と、記憶がないため自分を桜井だと思い込む山崎。
山崎の金を使い、家に暮らす桜井に、一本の電話がかかってくる。その電話はどうも、自分(=山崎)はコンドウという人物で、殺し屋のようだ…。
一方、山崎は桜井が住んでいたボロアパートで、自分はどんな人間なのかを探っていく。売れない役者で、どうも自殺しようとしていたらしい…。
お互いが、全くの他人の人生を生きていこうとする。

そこに、広末涼子演じる水嶋香苗が絡んでくる。この水嶋香苗のキャラがまたいい!
職場のミーティング中に「私、結婚します。年内に結婚するので、独身男性の知人がいる方は紹介をお願いします。」なんて、まじめな顔して言ってしまうんだから。手帳には、結婚までのスケジューリングがきっちり記入されている!

その水嶋香苗と山崎(記憶をなくしている方)が出会い、ちょっといい感じになったり、桜井は殺しの依頼に右往左往したりしているうちに、山崎は記憶が戻り…。
もうここからの展開の勢いは、しびれっぱなしでしたわ。
ここからの展開は、ぜひ観て、しびれていただきたいので触れないでおきます。


後半は騙されっぱなしで、細かいキャラの設定が、全部最後につながる感じは、もう鳥肌もの!
伊坂幸太郎の小説に近いものを感じます。伊坂さんの小説は、小説だからこそできるところがおもしろかったりもするけど、内田けんじ監督の作品は、映画だからこそできるおもしろさが出ているように思う。どちらも、鮮やかなパズルで、してやられた!となる、後味は共通です。

かぐや姫の物語(2013年)



かぐや姫の物語

『竹取物語』原作。高畑勲監督・スタジオジブリ制作のアニメーション映画。キャッチコピーは「姫の犯した罪と罰」。


なんかすごいもの観てしまった!
観終わってすぐは「なんかすごいもの観てしまった!」という感情がすべてだった。

宮本信子のナレーションで始まる「今は昔 竹取の翁というものありけり~」という冒頭は、中学校で暗唱した『竹取物語』と全く同じだった。(あまちゃん好きとしては、密かに「おお!夏ばっぱ!」と、ちょっとうれしかったり。)
正直『竹取物語』が130分という、意味が分からなかった。不安と期待の中、観始めた。

気づいたときには、完全に『かぐや姫の物語』の世界に飲み込まれていた…。


内容は『竹取物語』のまんま。だけど、すごい。
まず、展開は誰もが知っている通りで、そこに変更はないんだけど、姫の感情の微細な変化がすごい。アニメで、しかも表情を細かく描くわけではなく、平面的な表現でここまで伝わるものかと。

野山で捨丸たちと、駆け回っていた幼少期を経て、父の「娘を幸せにしたい」という思いから姫になったかぐや姫。折にふれ、野山での記憶に思いを馳せる。鳥かごの中のように、自由を制約された屋敷の中で。その窮屈さから、姫はあることを願ってしまい、月へ帰ることとなる。
「ここから逃げ出したい」。

姫は月の住人で、かつては地球に憧れ、地球の生活の中で自由がないと逃げ出したいと願う。両親や求婚者たちの愛も、煩わしいと受け流し、なくしてからはじめてその大切さに気付く。なんてことはない、現代人と同じなのだ。どこに行っても、ここではないと所在なさを感じ、あの頃はよかったと過去に思いを馳せ、まわりを振りまわす。
父とのすれ違いもまた、現代にシンクロする。父と娘の気持ちはすれ違い、正反対の方向を向いていってしまう。決して憎いわけではないのに。姫の父親への煩わしさも分かる反面、このまま最後まで姫は父への愛情を空回りに終わらせてしまうのかとものすごく胸が苦しくなった。
地球での記憶を消され、月へ向かっていくとき、一瞬振り返ったあのシーンがあってよかった、あの一場面で少しだけ救われたような気がする。


「姫の犯した罪と罰」というコピーについて
このコピーの意味を、私は観終わった今も、正直理解しきれていない。
月の住人である姫が、地球に憧れていた。これが姫の犯した「罪」なのではないのではないだろうかと考えた。迎えに来た月の住人たちは、仏のような姿をしていたので、神の世界で俗世に憧れたからなのかなと(宗教的なことはあまり詳しくないので、想像です)。だとすれば、翁たちと過ごした日々が、「罰」ということになる。それは、あまりにも辛いので、それ以上は考えないようにしてしまった。
いつか、気持ちが落ち着いたらコピーの真意を知りたいと思う。

姫は最後、月へ帰るときになって、もっと生きていたいと、屋敷の中で死んだように生きていたことを悔やむ。姫にとって「生きる」とは、捨丸そのものだった。それが分かったとき、この映画のテーマも「生きる」なのではないかと思った。(ちなみに、『風立ちぬ』のコピーが「生きる。」)


これはアニメではない。動き出す「絵」。
アニメというより、「絵」です。だから、ものすごく不思議な感じ。筆のようなタッチの絵が、スルスルと動いていくから、その場で書かれているような錯覚さえ覚える。躍動感も迫力も、筆のタッチで表現している。動き出す「絵」は、線ひとつひとつにも感情を宿しているかのように、幸福感や怒り、悲しみを訴えかけてくる。線は個体や情景を描く以上に、感情や状態までを描きだしている。やっぱり、これは「絵」なんだと思う。
その「絵」が動いているという感覚を、逆手にとって、静けさを表現するシーンであえて全くの静止画を挿入してくるところは、「やられた!」としか言いようがなかった。(月の住人が姫を迎えにくるシーンなど。)
今まで観たことないものであることは間違いないし、これはアニメではない、「絵」に近いもの。



小さい頃からお馴染みの物語にもかかわらず、未だに消化できない感情を湧かせ、それを観たこともない表現で伝えてきた『かぐや姫の物語』。
「なんかすごいもの観てしまった!」という、感情で表現するのが精いっぱいだけど、観てよかったと心底思う映画だった。

2013年12月12日木曜日

俺俺(2013年)


俺俺
原作は星野智幸作の同名小説。
三木聡監督・脚本、亀梨和也(KAT-TUN)主演で映画化された。



前情報なしで鑑賞。

亀梨君演じる永野均が、ひょんなことからオレオレ詐欺を働き、それを機に別の「俺」が増殖していく。
実家や職場で他人と関わることにめんどくささを感じていた「俺=永野均」は、「大樹の俺」や「ナオの俺」と出会い、「俺」たちだけのユートピア俺山を作ろう!と盛り上がる。みんな「俺」なのだから、考えることも同じで、気を使わず、分かり合えると思って。

最初は身代わりになったり、楽しくすごしていたが、色々な「俺」が集まるうちに、徐々に許せない「俺」と許せる「俺」がいることに気付く。そして、そう思っているのは「俺」だけでなく、もちろん別の「俺」にとってもであり、「俺」同士の削除がはじまっていく…。


正直、オレオレ詐欺で「俺」が増えていっちゃうコメディーかと思っていたら、全然違った。
むしろ結構怖い。

「もうひとり自分がいればいいのにな~」という、夢想はきっと誰でもしたこがあるだろう。そして、対峙する人や場所、立場、状況によって態度や振る舞いが変わってしまうということも、誰もがあることだろう。
そんな単純な夢想、無意識の日常を突き詰めていく先にある怖さがあった。

別の自分がいるということは、自分を100%理解している自分がいるということだ。それは、煩わしい気遣いなどはいらないかもしれないけど、自分の中に隠している、汚い感情も相手にバレてしまうし、自分も分かってしまう。これは怖い。
分かり合えないから知りたいと思うし、逆に分からないふりをして誤魔化せる部分ってどうしてもあるから、100%理解してくれるっていうのはお互い誤魔化しようがない怖さがある。
でも、日頃は理解してほしい、認めてもらいたいって思うのが人間だから、わがままな生き物だなと改めて突きつけられたような。ないものねだりっていうことでしょう。

そして、「永野の俺」、「大樹の俺」、「ナオの俺」という、別の「俺」の人格が存在するというものも、無意識のうちに日常的にあることなのではないか?会社の自分、友達といる自分、恋人といる自分は違うだろうし、友達でも相手によって違う「自分」をきっと無意識に出しわけている。その中には嫌いな自分も、認めたくない自分もいるだろう。それがずらっと並ぶなんて…。冷静にその「自分」を見ることができてしまうなんて…。怖い。


この映画を観てゾワゾワした。『俺俺』の状況を想像して怖くなったし、それ以上に自分は思った以上に色々なものを見て見ないふりをして、誤魔化しているんだという現実に。


勢いがあるし、ポップな感じの演出なので、ゾワゾワしながら観て「何だ?!このゾワゾワは?」なんて思っていたらラストになっていた。観終わって「怖い!」となるような。



最後に。亀梨君演技うまいのね。何人もの「俺」を演じ分けていて(どれも亀梨君なんだけどどれも別人!)、これ合成だろうからきっと一人で演技しているところも多いんだろうな~と思うと、すごいわ!これもまた、ある意味、怖い!

2013年12月7日土曜日

箱入り息子の恋(2013年)


箱入り息子の恋

ミュージシャンとしても活躍している星野源の映画初主演作品。監督は市井昌秀。

35歳、市役所勤務。出世欲も恋愛経験もなし、趣味貯金、童貞の天雫健太郎と、盲目の美少女・今井菜穂子。将来を心配したそれぞれの両親が行った代理見合いで出会い、恋をする。


まず、思ったのが、恋してるときのダサさ、滑稽さと言ったら!
不器用な探り探りの、それでいて繕うことを知らないピュアな恋は、見ているこっちがドキドキにやにたしてしまうくらい歯がゆい!

これは盲目の少女との障害を越えた恋では、決してない。
むしろ、健太郎のコミュニケーション障害の方が、やっかいな障害だった。
そんな、今まで会社と自宅の往復(昼休みも実家に帰る!)で、出世もしないまま同じ仕事を13年間し続け、狭い世界にしかいなかった健太郎は、菜穂子と出会い、恋をして、その世界から飛び出して行く。

手をつなぎ、キスをして、牛丼を食べ、菜穂子といろいろな話をする。今まで見えていなかった周りの人のことも見えてくる。会社の帰りに同僚と飲みに行き、昇進試験を受け、会社を初めて早退する。

恋をしなければ、知ることのなかった、辛い気持ちも同時に知ることとなる。自分の不甲斐なさや、気持ちのすれ違い。うまくいかないことだらけだ。街で見かけて思わず、追いかけてしまう。二人で行った牛丼屋は、今では対岸で見守るしかできない。そんな自分を菜穂子は知ることはない。見えないから。

だから、伝えなければいけない。
ベランダから菜穂子に会いにいくシーンは、きっとロミオとジュリエットのオマージュなんだろう。でも、実際の恋愛って「おおロミオ~」「ああ、ジュリエット~」なんて、おしゃれじゃないでしょう。走って、ぐしょぐしょになって、心底ダサいもんでしょう。

おしゃれな映画のような恋愛ももちろんいい。憧れる。
けれど、健太郎の恋みたいな無我夢中で必死な恋を自分はまた出来るのだろうかと、うらやましくもなった。
きっと誰もがこういうダサい思いをしたことがあり、傷ついたことがあると思う。
でも、傷ついてもダサくても、こんな恋って悪くないよね、と思わせてくれる滑稽さがあった。
ダサくなれるほど、人を好きになるって、ちょっといいかも、と。


最後に、今、ダサい童貞男を演じさせたら星野源の右に出るものはいないと思う。






2013年12月2日月曜日

第23回映画祭 TAMA CINEMA FORUM「松田龍平という佇まい ―春から大海原へ―」




第23回映画祭 TAMA CINEMA FORUM「松田龍平という佇まい ―春から大海原へ―」に行ってきました。


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●スケジュール

青い春上映
松田龍平、豊田利晃監督、新井浩文(サプライズゲスト!)のトーク
舟を編む上映
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映画の感想は、別の記事に書いてあります。
『青い春』の感想はこちら
『舟を編む』の感想はこちら


今回は、『青い春』豊田監督と、主演の二人ということで、『青い春』のトークが中心だった。
当時のエピソードや、思い出を交えつつ、新井さんのトークと、それに対するクールな龍平さんのトークで盛り上がっていた。


面白かったのは、観客の質問で
「九條はあのあとどうなったと思いますか?」という、質問に対しての答えだった。
「辞めたんですかね?考えましたね。ある意味、ナインソウルズに続くというか。九條にとっては、学校が一番楽しくて、つまらないというか。でも、卒業したと思います。」

ちゃんと卒業したのかどうかは、龍平さんの答えからはよく分からなかったが、龍平さんの中では九條は、あの後ちゃんと学校との折り合いをつけたという答えだったのだろう。彼自身、『青い春』の撮影前に高校を中退してから撮影に挑んでいる。
卒業証書をもらい、「仰げば尊し」を歌うことが卒業ならば、松田龍平も九條も卒業はしていないかもしれない。でも、泳ぐには寒すぎる世の中(=学校の外)へ出ていくことを、自らの意志で決断したことを卒業と捉えているのかもしれない。
それは九條の仲間たちが、学校を去る時にはなかったものだから。

この質問に監督は「お客さんに想像して欲しいですね。その先にナインソウルズがあるとは思いますが。」と答えた。
それも、おお!と思った。

二人の中で、『ナインソウルズ』のみちるに繋がるという、話があったのかどうかは知らないが、この話を初めて二人の口から聞いて、ものすごく『青い春』の結末がしっくりきた。
九條=みちるということではなく、きっと九條は学校の外で、変わらずあの眼差しで何かを見つめて生きているということなんだろう。

この後、新井さんは「しっくり来た!だから、うち、ナインソウルズに出てないんだ(笑)」と言い、笑いが起きていた。


『御法度』から『青い春』へ。『青い春』から『ナインソウルズ』、『I'M FLASH』へと繋がっていく。
『青い春』でデビューし、出会った新井浩文、瑛太とはその後も共演していく。映画ひとつひとつに、出会いがあって縁があって、広がっていく関係が面白いなと思った。

最近はミズタクや馬締君とかゆるっとした役が多いけど、何を考えているか分からない狂気を孕んだ表情の松田龍平といったら、豊田監督の作品だよな~と思っていたら、やっぱり監督もそういう松田龍平を撮りたいんだというようなことを言っていた。
新井さんも、いつも龍平の出演作を見るとなんで自分が共演していないのかと思うと言っていた。
「こういう龍平を撮りたい」と監督に思わせるのも、「一緒に共演したい」と思わせるのも、すごいことだと思う。人柄もあるんだろうけど。


最後に一通り、トークが終わって退場の時。一人マイクをいじっている松田龍平。
「今日はありがとうございました。」と、あいさつして退場していった姿が印象的だった。きっと言い忘れたことが気になったんだろう(笑)。


13年前、隣駅の廃校で撮影された映画が、この13年間この映画祭で何度も上映されているらしい。13年後こうやって、監督共演者が映画について語るというのも、なかなかないことだと思う。すごいな。改めて見て思ったけど、13年前なんて関係ないくらいの鮮度を保ったままの映画だった。



トーク後、会場から車に乗り込む3人を見ることができた。近くで見たいけど、ごりごり行けず、背伸びして眺めていたら、会場の案内の方が「こっちの方が見えるよ。見れてよかったね。」と、こっそり誘導してくれた。「ありがとうございます!」と、喜んでいたら、「来年もみんなが喜んでくれるような、映画とゲストを呼べるようにがんばるね。」と。
授賞式でも思ったけど、やっぱりあったかいイベントだな、と思った。

ウォールフラワー(2012年)



ウォールフラワー

スティーヴン・シュボースキー著『ウォールフラワー』を原作としたアメリカの映画。
著者であるシュボースキー自身が監督を務める。ローガン・ラーマン、エマ・ワトソン、エズラ・ミラーが出演。 

『桐島』の再来?!と、SNSで話題の本作。
たまたま、『青い春』を見た直後に鑑賞(『青い春』の感想でも、『桐島』を思い出した)したのも、何かの縁かもしれない。
※たしかに『ウォールフラワー』と『桐島』、『青い春』と『桐島』は通ずるところがあると思う。けど、『ウォールフラワー』と『青い春』は、つながらならないです。

スクールカーストの下層にいる、内気な少年チャーリーの生活が、パトリックとサム兄妹と出会うことで変わっていく物語。

『桐島』以降、「スクールカースト」という言葉が注目されているが、その面白さは「自分もかつてその図式の中に組み込まれていた時期があり、それを思い起こさせる」ところだと思う。
よって、今回の『ウォールフラワー』もスクールカーストの図式は出てくるが、そこがポイントではなくて、そのカースト制度に「勝手に」振り回されていた、「ちょっとこっ恥ずかしい時期」への共感が面白いポイントです。

ちょっと悪そうなかわいい(かっこいい)子への憧れ、友達が芋づる式に増える照れくささと調子乗った感じも、誰にも離せない自分の過去や個性も、好きでもない子と付き合ってしまう感じも、将来のやりたいことを密かに考えている感じも、卒業の不安と希望、それを見送る後輩のお祝いしたいけど、さみしい気持ちも、漠然とまだ変わらない関係で居られる気がしているお別れも。

チャーリーだけでなく、サムも、パトリックもその仲間も、みんな魅力的で、ひとつひとつのエピソードに、何かしら共感でき、照れくさくなってしまう。

自分が生きている世界がすべてだったから、いちいち必至で、必至すぎてちょっとダサくて、でも、誰もがそこにいたことがあるから、愛おしく懐かしむことができるんだろう。
チャーリーもサムも、パトリックも大人になれば、分かることなんだけど、あの頃だからこそのキラキラした文化祭みたいな夢のようなものが、描かれている映画だった。

けど、ただキラキラしただけの映画ではない。
チャーリーの過去も、サムの過去も、パトリックの個性も、高校生がひとりで抱え込むには大きすぎる。
大きすぎるから共有しようというきれいごとではなく、大きなものを抱えているけれど一緒にいれば笑える友達がいるということの意味を教えてくれる。

個人的にはチャーリーの過去はものすごく共感できて苦しかった。
守られなかった約束は、人を縛り付け、自分を責める。そして、何が起きても自分のせいだと、諦める。また諦めていく自分に、絶望しながら、同時に一緒に笑えた時間をどこかで欲し、それを求めることは許されないと、閉じていく。そんなことはないのに。分かっている。

またね、と言って、街を去ったサムを見送り、チャーリーはどこかでその「また」がないことに怯えていたはずだ。みんなが卒業し、また一人に戻った学校で。

「また」はちゃんと来た。パトリックは相変わらずだし、休みにサムは帰って来た。来年は一緒にシナモンロールを食べる。

守られない約束もあるけど、守られる約束もある。
あの頃には戻れないけど、続いていくものも確かにある。


青春のまぶしい日々の映画かと思いきや、もっと深い映画だった。


ただ、原作のあらすじを読むと、チャーリーの過去にもっといろいろエピソードがあったみたい…?
原作も気になる。
原作には、自殺した親友マイケルのことももう少しあるのかな。映画の中のエピソードだけだと、ヘレン伯母さん=マイケル?!と、勝手に深読みしてしまいそうになった。




青い春(2002年)


青い春

松本大洋の短編集『青い春』を基に豊田利晃監督が実写化。
『しあわせならてをたたこう』をベースに、『青い春』に収録された漫画のエピソードやキャラクターの要素を合わせて長編映画にしている。
松田龍平、新井浩文、高岡蒼佑、大柴裕介が出演。


学校を仕切る番を決める「ベランダ・ゲーム」(屋上の柵の外に立って何回手を叩けるかを競う根性試し)で、最高記録を出した九條と、それを取り巻く不良たちの群像劇。

九條の幼馴染の青木、甲子園の夢が破れた木村、家族はエリートの雪男、先輩に媚を売り気に入られていると威張る太田、使いっぱの吉村。
そして、九條。

九條の気持ちや考えていることは、ほとんど語られることがない。語られても、真意のわからない言葉がぽつりと発せられるだけだ。だからこそ、彼の言葉に、つい引き寄せられてしまうのだろう。
―(青木に対して)「あいついいやつだから」
―「泳ぐには寒すぎる」
―「咲かない花もあると思うんです」
そして、そういった感情の出ない役の松田龍平はすごく、狂気に満ちているし、より引き付けられる。豊田監督は、そういう松田龍平の使い方が本当にうまいと思う。

九條は仲間に「卒業後どうするのか?」と尋ね、それに対して彼らは、のらりくらりと返すだけで答えないのが印象的だった。「卒業後」を見るもの、見ることから避けるもの。

将来だけでない。仲間との関係や、自分自身の可能性。みんな見えない、言葉にできない、フラストレーションを抱えている、あの頃。
学校のぬるま湯に浸かりながら、間もなくやってくる寒すぎる外の世界に出なくてはいけない時。九條だけには、見えていたのだろう。確実にやってくるその時が。他のものたちが、目を逸らしているその時が。

そんな地上15センチくらい上に浮遊しているような、九條への嫉妬。青木は最後「九條にはできないこと」をやろうとして、ベランダの柵を越える。
九條は、その時初めて走りだし、感情が一瞬露わになる。地面に叩きつけられた青木の姿を見て、振り返った九條の表情に鳥肌が立った。その表情から、九條の感情はもう見えないんだけど、ハッとする表情だった。今の松田龍平だったら、もしかしたら違う表情をするのだろう。けれど、17歳のリアルな表情が、この時の九條にものすごくシンクロしていたように感じた。


イケメン不良映画の走りのような言われ方をする映画『青い春』だけど、学園もので分けるとするなら、個人的には、むしろ『桐島、部活やめるってよ』につながっていくような印象を持った。
狭い世界での、ヒエラルキー、葛藤、アイデンティティ、これからの未来。『桐島』より、もっとミクロに個の葛藤を描いている。
決して、すっきりする映画ではないし、ぐりぐりと突き刺さる映画であることは間違いない。『桐島』と違って、「あの頃こうだったよね。」と、語り合えるような映画でもない。でも、もっと深いところで、懐かしいというか、恥ずかしいあの頃を思い出す。たぶんどこかで、九條に憧れている青木に近い自分を。



青木が最後、黒で塗りつぶした青い世界。
真っ黒で流れ出したエンドロールが、最後徐々に青になっていく。
ものすごく、救いだと思った。