2013年12月13日金曜日
かぐや姫の物語(2013年)
『かぐや姫の物語』
『竹取物語』原作。高畑勲監督・スタジオジブリ制作のアニメーション映画。キャッチコピーは「姫の犯した罪と罰」。
なんかすごいもの観てしまった!
観終わってすぐは「なんかすごいもの観てしまった!」という感情がすべてだった。
宮本信子のナレーションで始まる「今は昔 竹取の翁というものありけり~」という冒頭は、中学校で暗唱した『竹取物語』と全く同じだった。(あまちゃん好きとしては、密かに「おお!夏ばっぱ!」と、ちょっとうれしかったり。)
正直『竹取物語』が130分という、意味が分からなかった。不安と期待の中、観始めた。
気づいたときには、完全に『かぐや姫の物語』の世界に飲み込まれていた…。
内容は『竹取物語』のまんま。だけど、すごい。
まず、展開は誰もが知っている通りで、そこに変更はないんだけど、姫の感情の微細な変化がすごい。アニメで、しかも表情を細かく描くわけではなく、平面的な表現でここまで伝わるものかと。
野山で捨丸たちと、駆け回っていた幼少期を経て、父の「娘を幸せにしたい」という思いから姫になったかぐや姫。折にふれ、野山での記憶に思いを馳せる。鳥かごの中のように、自由を制約された屋敷の中で。その窮屈さから、姫はあることを願ってしまい、月へ帰ることとなる。
「ここから逃げ出したい」。
姫は月の住人で、かつては地球に憧れ、地球の生活の中で自由がないと逃げ出したいと願う。両親や求婚者たちの愛も、煩わしいと受け流し、なくしてからはじめてその大切さに気付く。なんてことはない、現代人と同じなのだ。どこに行っても、ここではないと所在なさを感じ、あの頃はよかったと過去に思いを馳せ、まわりを振りまわす。
父とのすれ違いもまた、現代にシンクロする。父と娘の気持ちはすれ違い、正反対の方向を向いていってしまう。決して憎いわけではないのに。姫の父親への煩わしさも分かる反面、このまま最後まで姫は父への愛情を空回りに終わらせてしまうのかとものすごく胸が苦しくなった。
地球での記憶を消され、月へ向かっていくとき、一瞬振り返ったあのシーンがあってよかった、あの一場面で少しだけ救われたような気がする。
「姫の犯した罪と罰」というコピーについて
このコピーの意味を、私は観終わった今も、正直理解しきれていない。
月の住人である姫が、地球に憧れていた。これが姫の犯した「罪」なのではないのではないだろうかと考えた。迎えに来た月の住人たちは、仏のような姿をしていたので、神の世界で俗世に憧れたからなのかなと(宗教的なことはあまり詳しくないので、想像です)。だとすれば、翁たちと過ごした日々が、「罰」ということになる。それは、あまりにも辛いので、それ以上は考えないようにしてしまった。
いつか、気持ちが落ち着いたらコピーの真意を知りたいと思う。
姫は最後、月へ帰るときになって、もっと生きていたいと、屋敷の中で死んだように生きていたことを悔やむ。姫にとって「生きる」とは、捨丸そのものだった。それが分かったとき、この映画のテーマも「生きる」なのではないかと思った。(ちなみに、『風立ちぬ』のコピーが「生きる。」)
これはアニメではない。動き出す「絵」。
アニメというより、「絵」です。だから、ものすごく不思議な感じ。筆のようなタッチの絵が、スルスルと動いていくから、その場で書かれているような錯覚さえ覚える。躍動感も迫力も、筆のタッチで表現している。動き出す「絵」は、線ひとつひとつにも感情を宿しているかのように、幸福感や怒り、悲しみを訴えかけてくる。線は個体や情景を描く以上に、感情や状態までを描きだしている。やっぱり、これは「絵」なんだと思う。
その「絵」が動いているという感覚を、逆手にとって、静けさを表現するシーンであえて全くの静止画を挿入してくるところは、「やられた!」としか言いようがなかった。(月の住人が姫を迎えにくるシーンなど。)
今まで観たことないものであることは間違いないし、これはアニメではない、「絵」に近いもの。
小さい頃からお馴染みの物語にもかかわらず、未だに消化できない感情を湧かせ、それを観たこともない表現で伝えてきた『かぐや姫の物語』。
「なんかすごいもの観てしまった!」という、感情で表現するのが精いっぱいだけど、観てよかったと心底思う映画だった。
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